Re: 虚数の存在/実在についての議論について思うこと

2024-07-25
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disclaimer: 私は一介の修士課程物理学徒に過ぎないので,眉に唾をつけて聞いて下さい.言い訳がましいですが,本文に出てくる具体例はすべて私の気持ちの修飾として用いたに過ぎないと思ってください.また本記事では物理学者の統一的見解を知った風な口で書いていますが,全然違うけど…..という人もいるかもしれません.

虚数が存在するかしないかについての議論がInternet上で度々盛り上がっているようです.それ自体についてはあまりコメントすることもないのですが,@mod_poppoさんのブログ記事に書かれた内容について,物理学徒として若干弁解というか補足したいなと思うところがあったので書いてみます.

まず物理学者が虚数というか複素数のリアリティに拘るのは,現代物理学の根幹をなす量子力学が(複素)ヒルベルト空間上の線形作用素論を用いて定式化されているからだと思います. 複素数でなくても実数だけで本質的に説明できないかと試みられたようですが上手くいかないらしい1ので,多くの物理学者はこの現実世界の根本構造に複素数が深く関わっていると考えています[^要出典].だから虚数は嘘の数とか言われると反応していまいます. また(複素数を用いた)量子力学の定式化については数多の物理学者・数理物理学者が長年精力的に研究してきたので,数学者に見せても恥ずかしくない程度には厳密に達成されていると思います2.だからSNS上でも結構自信ありげに話す人がいるのかもしれません.

一方δ関数は,これもよく扱いますがどちらかというと便利な道具,上手い方便とみなしている面があると思います.これをDiracがどこまで理解して導入したのかは知りませんが,現代の理論物理学徒はδ関数が(超関数論で)数学的に正当化された対象である(そしてもちろん原点だけ無限の「関数」ではない)事自体はだいたい承知していると思います.ただδ関数が真に物理的な状況を表すことがあるのか? というのは個人的には疑問です3

時間依存する拡散方程式の時間初期解にδ関数を与えるとガウシアンが解として出てきます.これを物理学者は例えば「水面に落とされた砂糖の拡散過程」のモデリングとみなしたりするわけですが,だからといって物理学者は「東京湾に砂糖を落とすと瞬時にニューヨーク湾の海水が少し甘くなる」と本気で考えるはずもないです(ちゃんと考えてはいないですが,離散系で考えればこの問題は発生しなくなると思います). 要は現実のgood approximationになっていればそれで良いのです. こういうのは初等的な物理以外でも出てきます.高エネルギー物理とかだと,ある物理量を計算すると $\delta(0)$ が出てくるときがままあります.そこで我々はこのδ関数を無限範囲積分由来の発散量とみなし,定数で割ったり引いたりして(例えば$\int d^3p f(p) /V$,$V=δ(0)$は世界体積など),有限の値を得ます.数学者からするとめちゃくちゃだと思われるかもしれませんが,多分これは端折った説明で,こういうのは正則化という方法で真面目に取り扱われます4

虚数の話をしていたつもりがδ関数の話に飛び火してしまいましたが,要約すると,物理学徒の虚数に対する理解・向き合い方とδ関数に対するそれはかなり違っていると思います. 物理学徒が本当に恐れることは積分が発散することです.理論に虚数が出てくることではありません. そして理論に出てくる無限については,割と真面目に考えています.δ関数は一点でだけ無限だからこれが素粒子だねえ,みたいなレベルではないです.

結論

留数定理の存在を一度知ったならば,人々はその有用さに打ち震え,虚数が存在するとかしないとかそんなレベルの話はしなくなると思います.


  1. Renou, MO., Trillo, D., Weilenmann, M. et al. Nature 600, 625–629 (2021). https://doi.org/10.1038/s41586-021-04160-4 ↩︎

  2. と書きましたが,若干嘘かも.物理学者はbra-ketと超関数を軽率に使いますが,超関数は普通のヒルベルト空間の要素ではないので…… 一応両者を数学的に正当な形で融合させる試みはあるようです: http://kir018304.kir.jp/nc/htdocs/?action=common_download_main&upload_id=204 ↩︎

  3. 一応ことわっておきますが,私はδ関数の「実在性」とかを疑っているわけではないです.上に書いた通りδ関数は超関数論で説明される対象で,それ以上でもそれ以下でもありません.虚数に対する考え方も同様です. ↩︎

  4. 積分範囲と世界体積を無限と考えたからこんな怪しいことになったのではないかと思うかもしれませんが,実はそんな単純な話でもないのです.こういった積分にナイーブなカットオフを入れると物理的に成り立っていてほしい系の対称性や不変性が破れてしまうことがあります.無限自由度の系では起こらなかった問題が,有限自由度では表出してしまうのです.なので正則化ではいろいろな工夫を凝らします.正則化に関する研究は未だに続いており,興味深い問題です. ↩︎

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